(聞き手)
震災前の備えや、取り組んでいた対策についてお聞かせください。
(相馬様)
弊社では、過去の大規模災害等を踏まえたマニュアル整備をはじめ、設備も経験を活かして強化を図っています。また、地震に限らず、過去の自然災害で受けた大きな被害を基に、塩害、風害および雪害の対策についても行っています。
例えば、雪害についてですが、昔は電線に雪が付着し、雪の重みで電線が切れるという事故もかなり多かったのですが、今は難着雪電線といって、雪がある程度溜まってくると、自重で自然に落ちるようなメカニズムを用いた電線を開発して、電気を送っています。
また、東日本大震災では、地震と津波により、岩手県、宮城県および福島県の太平洋側を中心に弊社設備も壊滅的な被害が発生しました。
発電、送電、変電、配電部門の設備がそれぞれ倒壊、損壊、流失、浸水などの被害を受けています。これに伴って、未だかつて経験した事がない、大規模な停電が発生しました。青森県、岩手県、秋田県、宮城県の全域、山形県のほぼ全域、福島県の一部にわたって停電が発生してしまいました。この未曾有の広域停電に対し、弊社はただちに復旧作業にとり掛かり、発災後3日で約80%の停電を解消。4日後には約94%になり、3月末時点では停電戸数17万2,000戸まで減少し、全体の約96%まで解消しています。最終的には6月18日までに、復旧に着手可能な地域の停電をすべて解消しました。これらの成果が上げられたのは、企業グループ各社、協力会社、他電力会社からの応援はもとより、これまでの災害対応の中で得た経験や災害訓練、そして何よりも、早期復旧しようという弊社社員の使命感がDNAとして脈々と引き継がれて達成出来たものと考えています。
(聞き手)
実際に地震の経験や体験で、覚えていることはありますか。
(相馬様)
宮城県沖地震の時は小学校3年生でした。ちょうど自転車に乗っている時でしたが、乗っていても揺れがわかるくらいで、地面に地割れが走ったので、慌てて自転車を降りて揺れが収まるのを待った記憶があります。
(聞き手)
今回、東日本大震災を経験されての、お気持ちの変化はありますか。
(相馬様)
今回の、東日本大震災を経験する前までは、震度5以上が大きな地震だと思っていました。しかし、東日本大震災以降、震度5以上の余震も多く経験し、弊社設備も震度5程度では供給支障事故もほとんど起きていないため、「収まるまで慌てないで待つかな」と考える気持ちの余裕が持てるようになりました。
(聞き手)
今回の大震災を経験する前にも、復旧対応に関しての経験はありましたか。
(相馬様)
地震であれば、中越地震や中越沖地震、宮城県北部地震等の復旧対応を経験しています。
(聞き手)
塩釜営業所では、どれくらいの範囲が管轄になっているのでしょうか。
(相馬様)
松島町、利府町、七ケ浜町、塩釜市、多賀城市、それから宮城野区の一部を管轄しています。
(聞き手)
津波や地震、水害に対する机上訓練や実働訓練等はされていましたか。
(相馬様)
会社全体として毎年実施しています。本店で実施するケースもあれば、支店で実施するケースもあります。営業所では、それらの訓練に参加しているほか、本・支店の訓練に合わせて営業所でもう一つ付加価値をつけた訓練を実施していました。
実施回数については、高い確率で宮城県沖地震が来るという話がありましたから、それに備えて、最低でも年2回は行っていました。
(聞き手)
宮城県沖地震を想定しながら、訓練されていたという事でしょうか。
(相馬様)
そうです。例えば、地震発生と同時に新潟県を含めた東北7県の全勢力を、自動的に被災地に向けさせ受け入れを行うなど、応援を出す側も受け入れする側も、緊迫感をもってそれぞれに訓練を行っていました。
(聞き手)
津波に伴う避難訓練を今後していく予定はありますか。
(相馬様)
津波の避難訓練を実施していなかったのは、自治体作成の防災マップ等で当事業所が津波エリアに入っていなかったという理由があります。今後どうしていくのかという点では、地盤が下がったという話もありますし、今後の防災マップ等に入るのか入らないのかを含めて、改めて検討していく必要があると思っています。
(太田様)
津波関係であれば、東北学院大学さんと、平成20年3月20日に、「大規模災害時の学校法人東北学院多賀城キャンパス内一部施設借用に関する協定」を結んでおり、グループ企業も含め工事車両の移動訓練を今後実施する予定です。
(聞き手)
備蓄の用意とその内容について教えてください。
(相馬様)
3日分くらいの水と乾パン等の食糧を用意しています。
(聞き手)
震災対応にあたっては、すぐ動ける体制といったものも心掛けているのでしょうか。
(相馬様)
応援を受け入れする営業所については、設備の復旧作業やお客さま対応等で精一杯で、応援隊の食糧まで準備する余力はありません。
従いまして、応援隊の食糧等を準備する後方支援隊を作り、応援隊や受入営業所の食糧をはじめ寝床の調達等を実施しています。
宿泊については近くのホテルや旅館等にてお世話になることもありますが、宿泊施設が確保できない場合は、車中泊やテント等に宿泊することも当然あります。
(太田様)
応援に行った所の会議室で、そのまま寝ることもありました。今回の大震災では会議室で寝袋を使って寝ていました。
(聞き手)
テントを建てる訓練を行ったり、実際にテントに泊まったりすることもあるのでしょうか。
(相馬様)
幕舎訓練といってテント設営をして宿泊する訓練も適宜行って、災害に備えています。
(聞き手)
震災が起きた当時の心境や、揺れについてお聞かせください。また、発災時にはどちらにいらっしゃいましたか。
(相馬様)
ここ、東北電力塩釜営業所の本館2階で自席に座っていた時に揺れが始まりました。かなり大きい揺れだったので、「あ、宮城県沖地震が来たか」と思いました。
机の上にコーヒーカップを置いていたのですが、中身がこぼれるくらい大きな揺れで、机の下に隠れました。揺れが終わった頃、火災時の避難訓練と同じ避難手順を踏み、一旦、中庭駐車場に避難しました。
(聞き手)
その時にはやはり、こちらも停電はされたのでしょうか。
(相馬様)
はい。揺れてしばらくした後に停電になりました。
(聞き手)
こちらには非常用発電機などはなかったのでしょうか。
(相馬様)
応急用電源車で所内の一部を救済できるようにしています。
(聞き手)
周りの皆さんの状況は、どうでしたか。
(相馬様)
これまで経験が無い大きな揺れだった割には、各自冷静に努めていたと思います。揺れが落ち着くまで自席で待って、下階に降りたのですが、外に出てから全員が避難したかどうかの点呼報告が訓練どおり出来なかったのが反省点です。
また、外に避難して間もなく本店からの内線電話が鳴り、津波が来るから避難するよう指示がありました。
しかし、津波がどこまで来るのか、何処に避難したらいいのか、車で逃げていいのか判断に悩みました。
結果として、車の渋滞もあり、万が一津波が押し寄せて来たら建物の上に避難するとの判断のもと、この事業所を離れませんでした。
(聞き手)
発災当時の役割と対応について説明をお願いいたします。
(相馬様)
揺れが落ち着き状況を確認するために室内に戻りました。
発災と同時に本支店では、第2非常体制という、最上ランクの体制が敷かれました。第1非常体制を飛び越して、いきなり第2非常体制(※)になったのです。営業所でも非常災害対策本部を立ち上げ、私自身は操作指令班の分任者という役割に就きました。操作指令班の仕事は、系統操作の指令、停電状況の把握、操作記録の役割です。
事業所内にある指令室で、各変電所からお客さまに電気をお配りしている回線を表示するランプは通常は赤色ですが、その全てが停電を示す緑色に変わっていました。
機器の試験でもそんな状態にはならないのですが、実際に全て停電した状態を見たのは初めてでした。それを見た瞬間に、被害の大きさを痛感しました。
(※)管内で震度6弱以上の地震が発生した場合、自動的に第2非常体制に入ることが決められている。
(聞き手)
緑色のランプ点灯をご覧になって、動揺されたのではないですか。
(相馬様)
いえ、全部が止まってしまったことで、良い意味で逆に開き直ったという感じです。
また、操作指令班として非常に重要なシステムである、配電線系統の状態を管理・操作するシステムや変電所状態を表示する装置があるのですが、本体自体に異常もなく、非常用バッテリーに正常に切り替わって動作していたのでひとまず安心しました。
また、事業所内の電源についても、必要最低限でありますが、応急用低圧電源車で救済できたので、速やかに復旧作業に着手する事が出来ました。
(聞き手)
応急用低圧電源車で電気が点いたのは、いつ位でしたか。
(相馬様)
暗くなる前には点けていました。
(聞き手)
塩釜営業所管内では、電気を復旧する順番というものはありますか。
(相馬様)
電気を、何処に先に送るかという優先順位は決めてあります。ひとつの変電所から回線が15本前後出ているのですが、その回線ごとに病院など人命に関わる所や広域的な公共設備など、そういった場所は事前にリストアップしていて、それに基づいた優先順位を決めています。
(聞き手)
復旧作業の拠点となる塩釜営業所も、早く復旧するという事でしょうか。
(相馬様)
いかなる時も、お客さま優先です。塩釜営業所では復旧作業に必要な最低限の電気を確保しなければなりませんから、そのために応急用電源車を使用しました。
(太田様)
今回は、変電所も津波で被害を受けました。そのため、地域でいうと、利府から、塩釜、多賀城の一部へと送電を始めました。
多賀城変電所が津波で壊滅的被害を受けましたので、そのエリアが最後になりました。また、離島についても設備被害がひどく、最後の方になってしまいました。
(相馬様)
実際は全ての変電所が止まったため、あらかじめ決めていた優先順位どおりに進みませんでした。
そこで、変電所を保守・管理している技術センターに電話を掛けてどこの変電所が一番早く復旧しそうか確認し、早く復旧できる変電所から先に着手したのです。
復旧手順としては、まず変電所まで電気が来ます。変電所内で各回線にスイッチを入れると、その回線(高圧線)の末端まで通電されますが、安全を確認しないまま送電する事は出来ないため、先に、送電エリアが安全な状態か確認します。
また、設備改修が必要な場合は直しながら送電していきます。設備が改修前であっても、別系統から健全区間だけを送電できる場合は、別系統から可能なかぎり送電することにもしました。
(聞き手)
電源が取れる場所から復旧させていくという状態でしょうか。
(太田様)
回線については、家の中のブレーカーで考えて頂くとわかりやすいと思います。
例えば、電流が15アンペアまでしか送れないとすれば、その15アンペアギリギリまで送るため、系統を切り替えながら対応したということになります。
(相馬様)
各回線には電流や電圧の制限がありますので、それも考慮しながら可能な範囲でギリギリまで送電しました。先ほど副所長が話しましたが、多賀城変電所と、仙台港変電所という2つの変電所が大量の瓦礫の直撃を受け、また水没し、その供給エリアの復旧が最後になってしまいました。
この2つの変電所には、近隣変電所から可能な限り電気を送るとともに、変電所内に仮設の移動用変圧器を持ち込んで、対応しました。
(聞き手)
グループ会社に参集がかかると思いますが、広域応援が来るまでどの程度の時間が掛かったのでしょうか。
(相馬様)
塩釜営業所に応援隊が来たのは発災から2、3日後です。それまで自力復旧型の体制を敷いていましたが、応援隊が入ることを聞いて、受入体制に変更しました。
応援隊の受入場所については、予め決めていましたので、そこに集まってもらいました。
(聞き手)
今までは応援に出かけていく方が多かったと思いますが、応援を受け入れる立場になって、どう感じましたか。
(相馬様)
受け入れする側が大変だという事は覚悟していました。
しかし、日頃の訓練のお陰でやるべき事は心得ていましたし、応援に来る側も、細かな指示を出さずとも要点のみで対応してもらえたので、スムーズな対応が出来ました。
(聞き手)
応援の方々は地理情報が不足していたと思いますが、そういった問題はどのように対処されたのでしょうか。
(相馬様)
弊社では、全車両に配電業務ナビゲーションシステムというものを配備しています。市販されているナビゲーションシステムとは異なり、目標を住所と同じように電柱番号で設定する機能等があり、現場に向かうことが出来ます。
ですから、他支店から応援隊が来た時も、集合場所や改修場所の電柱番号を示せば、容易に向かう事が出来ました。
(太田様)
配電ナビシステムは非常に役に立っています。中越地震の時にも本システムはあったので、電柱番号をもとに作業現場が即座にわかり、復旧作業がスムーズに出来ました。
(聞き手)
今回、復旧作業には、どのくらいの方が携わりましたか。
(相馬様)
発災から62日間で、延べ22,000人が当営業所管内に入りました。全員がこの小さな営業所の中に入れないので、隊長と連絡員の数名が営業所に入り、受入営業所の総括責任者から作業指示を受けました。
作業指示を受けた隊長は、現地集合場所で待機している各作業責任者に指示を出し、全作業員に指示を伝えます。指揮命令系統はピラミッド状になっています。
(太田様)
私も当時、山形支店の隊長として何度か当営業所に応援に入りましたが、当営業所からの指示を受け、復旧現場毎に社員・工事会社を振り分けして、自立的な復旧作業を実施していきました。
(聞き手)
営業所には、あまり電柱等のストックはなかったのでしょうか。
(相馬様)
そうですね。電柱等の復旧資材に関しては、臨時的に資材置き場を確保して、一斉に輸送をかけました。
今回、津波でメーターが不足した為、他電力会社のメーターを一時的にお借りして対応した事もありました。
(聞き手)
各家庭の停電解消に向けて、どのように作業を進められましたか。
(相馬様)
先ほど変電所から各回線までの優先順位についてお話しましたが、それぞれの回線についても復旧手順があります。
最初は、広範囲に停電の影響を及ぼしている高圧線の改修・送電から進めます。
次に低圧線、その次に引込線と順次改修を進めていきます。
また、高圧線については、電柱上のスイッチ区間ごとに小分けに改修・送電を進め、一刻も早く、1戸でも多く、お客さまへ送電するよう進めました。
さらに電柱倒壊など改修に多くの時間を要す場所は、その被害個所を一時的に健全な区間から切り離して、つまり、高圧線を電柱の上で切断して、先に健全区間を送電することも行いました。
その過程において、供給ルートや設備被害の関係上、送電時間に違いが生じたため、電気の点く地区と点かない地区の違いがありました。ご不憫をお掛けして誠に申し訳ありませんでした。
(聞き手)
震災当時、1~2日後に現地を訪れると、次々と電柱が立っていくのを目の当たりにしましたが、その作業などで苦労した事はありますか。
(相馬様)
津波で流されたところは瓦礫が支障となり、非常に大変でした。まずは瓦礫の撤去を行い、その後、元の電柱位置を確認しながら建てていきました。
(聞き手)
塩釜営業所管轄で、電柱の被害はどの位だったのでしょうか。
(相馬様)
電柱の傾斜・倒壊で1,115基、流出紛失で1,881基、合わせると約3,000基になります。
(聞き手)
4月7日に起きた地震の際も、ランプが緑色になってしまったのですか。
(相馬様)
ほとんどが停電を示す緑色になりました。ですが、変電所側の復旧は3月11日の時より早く、配電設備の被害についても、津波がなかった分、早く復旧する事が出来ました。
(聞き手)
発災当時、気が張りつめた環境でお仕事をされていて、お休みも無い状況だったと思います。身体的・精神的な不安はありませんでしたか。
(相馬様)
私自身は4月7日の余震の時に、心が折れそうになった時もありましたが、何とか大丈夫でした。営業所内でも、精神的な疾患を訴える社員はおりませんでした。
(聞き手)
体力的にも精神的にもかなり厳しい状況だったと思いますが。
(相馬様)
私が自宅に帰ったのは3日目の深夜でしたが、それまで家族と連絡が取れなかったのが一番辛かったです。
家族の安否を確認した後、すぐに会社に戻り、20日間ぐらいずっと会社で寝泊まりして復旧作業に従事しました。課長などは1か月も自宅に帰っていませんでした。かなりの負担になっていたと思いますが、精神的に折れる暇もないといった状況でしょうか。自分自身でも常に心が折れないように気を付けてもいました。
(聞き手)
ストレス性の疾患であるPTSDは、実はこれから発症する事が多くなってくるという意見があります。そのことについて、どのようにお考えでしょうか。
(相馬様)
時間外勤務が多い社員は産業医との対話を行うこととなっています。適宜、順番に休暇、休養を取るよう声を掛け合いましたが、山ほどある仕事のことを考えるとなかなか厳しかったです。
また、異動等のジョブローテーションの機会に被害の少なかった営業所へ転勤する配慮もありました。現在、塩釜営業所の配電計画課で当時震災を経験した社員は、私を含めて24人中6人くらいで、他は転勤しています。
(聞き手)
市役所や市民の方との関わりについて教えてください。
(相馬様)
私たちもただ電気を送るだけではなく、自治体などの要望を聞きながら話を進めていく必要があると考えています。連絡員を通して、各自治体の被害状況や、どうしてもここに電気が必要だなどといった部分の情報を集めました。
逆に、こちら側の被害状況や復旧見通しなどの情報提供についても、やりとりを行いました。
特に、台数に限りがある応急用低圧電源車の設置個所については、私たちは、ここが優先だろうと考えていても、自治体側の考えもありますので、設置する箇所を事前に確認するようにしました。
今回は、市役所をはじめ、主要箇所に応急低圧電源車を4台設置しました。
話題はちょっと変わりますが、お客さまとの関わりという事で、先ほども少し話題に出ましたが、津波で浸水したところのお客さまの送電を1軒1軒、屋内の絶縁抵抗を測定しながら送電した際のことです。
あまりに津波が広範囲だった為、非常に時間がかかり、毎日夜中まで作業を行いました。午後11時頃になったこともあり、お客さまはもうお休みになっているところだったのですが、「これから電気を送りますから」とお邪魔して送電していました。その際、快くご協力頂いたお客さまに感謝申し上げます。有難うございました。
(聞き手)
1軒を調べるのに、どのくらいの時間がかかりますか。
(相馬様)
調べるのは数分で終わります。後は、浸水したメーターを取り換えて電気を送る作業になりますが、10分程度で終わります。
測定器でモニタリングして絶縁抵抗値を測り、異常がなければ送電する事が出来ますが、異常があった場合には、個々に対応を取らせて頂きました。
例えば、2階が大丈夫でも1階が駄目だった場合なら、2階だけブレーカーを入れ、半分だけ電気を送るといったこともしました。
(聞き手)
送電できなかったこともありましたか。
(太田様)
絶縁測定して異常がある場所に電気を送れば、漏電や火事になる恐れもあるので電気は送れません。送りたい気持ちはありますが、安全確保のため、送らずに戻る事もありました。
(聞き手)
電気を復旧させるために、津波に浸水した場所は検査するというお話を伺いましたが、津波被害のなかった所に関しては検査しないのでしょうか。
(相馬様)
いいえ。建物の損壊が激しい所に関しては、津波被害と同じように点検して安全を確認後、送電させて頂きました。
その結果、送電後の感電や電気火災などの2次災害はゼロでした。
(聞き手)
2次災害に関して、地震が起きたらすぐにブレーカーを落として、復旧するまで待つ。これは一般的によくいわれている事柄ですが、やはり実践した方が良いという事でしょうか。
(相馬様)
是非、お願いしたいです。
(聞き手)
電気が復旧した後は、周辺の住宅や街灯が点き始めたら、メインブレーカーを上げてから、他のブレーカーを個々に1個ずつ上げていく方法が良いのでしょうか。
(相馬様)
それが正しいやり方となります。漏電等の故障があれば、メインブレーカーと漏電ブレーカーを上げた後に分岐ブレーカーを1個ずつ上げて頂くと、不良回路の分岐ブレーカーを上げた瞬間にメインブレーカーか漏電ブレーカーが下がるので、お客さまご自身でも不良回路の判断ができると思います。
(聞き手)
地震で停電した際、コンセントは全部抜いたほうがいいのでしょうか。
(相馬様)
ブレーカーだけ下げていただければ、コンセントは抜かなくても大丈夫です。
(太田様)
しかし、津波をかぶった後は、ブレーカーを上げる前に、コンセントを抜いた方がいいかもしれません。
(聞き手)
ブレーカーが落ちる前に、漏電などで発火する場合もあるのでしょうか。
(太田様)
漏電ブレーカー等の保護装置が付いていれば、瞬時にブレーカーが下がるので火災や感電になることはありません。なお、漏電ブレーカーにはテストボタンが付いていますので、正常に動作するか確認が出来ます。
(聞き手)
今回は津波で電柱が倒れて、電線ケーブルなどが瓦礫の中に散乱したという話も聞いています。
(相馬様)
電気は見えませんから、そのような場所には、とにかく近づかず、触らないでください。
(太田様)
例えばですが、電線が水に浸かっている場合、その水自体も通電している可能性があって危険なので、絶対に近寄らないで頂きたいと思います。
(聞き手)
近年では、ソーラーパネルを取り付けている住宅が多数ありますが、注意点はございますか。
(太田様)
倒壊した家屋でソーラーパネルが設置してある場合、ソーラーパネルがまだ発電している可能性もあるので、不用意に近づかないように注意して頂きたいです。
(聞き手)
これからの多賀城市の復旧、復興に関して、ご意見やご要望はありますか。
(相馬様)
多賀城市に限らず、各自治体で復興計画は既に出されています。私たちはそれを見ながら対応させて頂いています。逐次、情報を取りながら、スムーズに対応出来るようにしていきたいと考えています。
(太田様)
最初の段階から情報を密に取り合って、どこに電柱を建てるかなど打ち合わせしていくと、うまくいくケースがたくさんあります。
逆に、造成等の工事が始まった後で、電柱の位置を決めるとかなり難しい所がありますので、事前打合せを密にして頂ければありがたく思います。
(聞き手)
特に復旧・復興に向けては、コミュニケーションを密にしていく事が重要ですね。
(相馬様)
はい。私たちも定期的に自治体にお邪魔しながら、情報交換したいと考えています。
なお、復旧・復興工事で弊社の配電線や送電線に近づく作業もあるかと思います。その際は、不用意に近づかずに防護処置等を施すよう、自治体の発注工事においても、施工者に対して注意喚起していただければと思います。